(1)おいちゃんに、娘が生まれた春がきた

先日、次女が16歳になった。

ということは、ぼくが生命保険の営業をはじめてから、16年が経過したということだ。感慨深い、というか、長さだけでは決して推し測れない濃密さが、この歳月にはある。

 

次女が生まれた日の翌日、入社の選考結果待ちだった保険会社から、採用通知が届いた。それは、彼女が運んできてくれた幸運のように思えた。そのちいさな手のひらに贈り物を握りしめて、この世に生まれてきてくれたような気がしたのだ。

まさか、その贈り物が、とんでもなく混沌に満ちたビックリ箱だったとは思いもよらず、成功のみを信じて、当時はまだ無名に近かった新興の外資系保険会社、ドナルド生命への入社を決めたのだった。

 

さて、時間は少し先へ飛んで、その半年後のある日。ぼくはどこでなにをしていたか。

昼下がりの、だだっ広いがらんとしたオフィスで、ひとりノートパソコンの画面と向き合っていた。というか、うつろな視線で、ぼんやりと画面を見ていた。

頭の中ではいろんな思いが浮かんでは消えるが、まるで回し車のなかをカラカラ走り続けるネズミみたいで、一向に思考が先に進まない。「どうしよう」「もうおわりなのか」。そんな言葉だけが、壊れたレコードのように何度も脳内で繰り返される。

 

ドナルド生命の営業職は、他の外資系保険会社の例に漏れず、フルコミッション(完全歩合給)の報酬制度だ。しかもマーケットは、基本的に自分自身で開拓し続けていかなければならない。契約の額が大きければ青天井の報酬。しかし、まったく保険を預かれなければ、ほぼ報酬はないに等しい。極めて自律性が求められる仕事だといっていい。

挙績が難しければ、当然在職もおぼつかない。就業規則には、3か月間平均で一定の額を挙績出来なければアウト、と記載されている。アウトが3回続くと退場(解雇)を余儀なくされる。

ドナルド生命に限らず、いつの時代も生命保険業界というのは、めまぐるしく社員の入社と退社が繰り返される、そんなきびしい業界なのだ。

 

入社後ひと月の研修期間を終えたのち、そこから3カ月間はとにかく遮二無二動いた。

自分の身内や親しい友人たちをまわり、習いたての保険の仕組みを説明しては必要性を訴え、ときには親しい関係性に頼って、強引に手続きまで押し通したこともあった(いまさらながらすみません)。おかげで、同期の仲間と比較しても、遜色のない成績を挙げることが出来たが、気がつけばそこまで。ぼくの猫のひたいほどのちいさなマーケットは、瞬く間に焼け野原となり、ぺんぺん草さえ生えていなかった。期待していた身内や友人からの紹介は、頼りにすれどもまったく出てくる気配がない。ぼくのスコアボードには、ひとつ目のアウトが点滅しつつあった。

 

意気消沈中のぼくの肩を叩いたのは、ひと月早く入社した同僚社員だ。

「どうしたの、パソコンばかり眺めていても契約とれないよ」

「行くところがなくて、待機中です」と、ぼくは口をモゴつかせる。

「ほう」とひと言、彼の視線が憐れみを帯びているのが、背後からでもよくわかる。

 

ちなみに、この新設支社には、今現在、ぼくらを含めて7人しかいない。そのうちのひとりは支社長だ。20人は収納出来ようかというスペースに7人。設立してもう半年以上が経過するが、このギャップが、会社のプロジェクトに対する見込み違いを、如実に物語っているようだった。その経緯については、また次回以降にお話しするとしよう。

 

この同僚社員、支社長が最初に採用した逸材らしく、前職は経営コンサルタントだったそうだ。

そのコンサル氏が、「ちょっとこっちにきなよ」と、ぼくをオフィスの窓際に手招きする。高層階の窓からは、おおきな交差点を無秩序に移動する歩行者の波が映し出されていた。

 

その様子を眼下に見据えながら、おもむろにコンサル氏は言った。

「行くところがないっていうけど、あそこを歩いている人たち、みんな見込み客になり得るからね。とりあえず、名刺でもチラシでも配って、あいさつしてきたら」

 

おまえ、ほんとうに経営コンサルだったのか、

と胸のうちで毒づきながらも、「ハア」と生返事して鞄を携え、オフィスをあとにした。もちろん、コンサル氏のありがたい助言を実行に移せるほどの度胸も根性も(破廉恥さも)、ぼくは持ち合わせてはいなかった。足は自然と、最近とみに避難小屋と化しているカフェへと向いた。今日も、なにも解決策が思い浮かばなかった。確実に退場のカウントダウンは近づきつつある。

 

ちなみに、当のコンサル氏はノイローゼの発症を理由にして、数日後には会社からいなくなっていた。

 

 

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